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賃貸の問題の修正

そんなものでも、一度コツをおぼえれば、短時間でなんなく修理できるようになっていたのである。
また、戦争で焼けた機械を塗り替え修理するときなどは、店が狭いために、道路上にバラした部品を並べ、悪い部品を修理したり交換したりしたあと、また組み立てなおしてひとつの完全な機械にする。 足りない部品は、日本橋からすぐのところにある秋葉原まで、よく自転車を飛ばして調達に行ったものだった。

秋葉原は、戦前から電気部品を扱う専門店がいくつも軒を並べていて、現在のオタク文化のメッカとなるべき要素を、その頃から持っているような不思議な活気のある街だった。 大正時代の末にラジオ放送が始まったが、当時はメーカー品の完成品としてのラジオはあまりにも高価だったから、一般の人たちは、真空管やトランスを初めとした部品を買ってきて自分で組み立てていた。
私もよく、頼まれてお客さまのラジオを修理していたものである。 秋葉原には、昭和の初期からその部品屋が集まって、現在につながる電気街の様相を呈していたのだった。
そんな街がすぐ近くにあったということも、私にとっては実に幸運だった。 また、道路に部品心を並べるといっても、まだ自動車もあまり通らない時代である。
その頃は、日本橋や銀座、大手町といった東京の中心部を走る幹線道路でも、機械部品を並べてその一部を占領していたところで、おまわりさんに叱られたり、クルマのクラクションを鳴らされたりすることはほとんどなかった。 ほかにも、古いカバンなどを切った革でパッキンをつくり、あるいは、米軍の歯科医が使い捨てにした歯を削るバー(ドリル)を売りにくるのを購入して、きちんと洗浄したあとで包装し直して販売するということもやったものだった。
当時の日本の歯科医院では、目立てという研ぎ直しをした上で使うのである。 要するに、米軍はバーを1回使ったら捨てるくらい物資の豊富さを誇っているのだが、われわれ日本人は貧しくて、歯の治療にも、そのお下がりをありかたく頂戴して使うというわけである。
こんなことにも、当時のわが国とアメリカの国力.経済力.技術力の違いをまざまざと見せつけられるようで、よくも日本はこんな大きな国と戦争なんかしたものだと、ドリルを洗いながら半ば呆れた気持ちになったことを今でもよく覚えている。 伯父にあたるT口先生からH歯科商店を紹介してもらったことは先にも書いたとおりだが、先生はもうひとつ、N大前の深井歯科商店という別の商店も紹介してくれていた。

他との差別化を図る目的があると賃貸の専門家は考えるが、これがなかなか難しいと賃貸の専門家は最近あらためて実感しています。